Distance  of  love

あの人はテニス部の先輩でつ年上の人。

人当たりは良く、綺麗で、テニスも上手い。

でも、それだけなら気にならなかった。そんな人間はいくらでもいる。

自分の目を捉えたのはあの人の“瞳”だった。

いつでも笑みを絶やさない、にこやかで温和な雰囲気を持つあの人の瞳は不思議な色をしていた。

表情とは裏腹にどんな時もその瞳は笑っていない。突き放したように周りを見つめるその瞳は見事なまでに無表情で。

・・・それに気づいた時からあの人がいつ笑うのか気になった。本当に笑うところを見てみたくて、事あるごとにあの人を目で追うようになっていた。

好奇心から始めた小さなゲーム。そんなつもりだった。

でも、あの人を見るうちにある事に気づく。

無表情だと思われるその瞳も、時折揺らぐ瞬間がある。

それは決まって誰もあの人の周りにいない時、ひとりで何か思いにふけっている時で。

・・・初めてその色を見た時、胸のどこかが強く締め付けられるような気がした。

 

あの人は何故、あんな目をするのだろう。

・・・その瞳に浮かんでいるのは痛みにも似た切ない色。

 

ねぇ、あんたは何を望んでいるの? そして何が欲しいんだろう・・・

 不二先輩・・・

 

 

急遽行われることになったコート整備で部活がなくなり、気が抜けたのもつかの間、たまっていた図書委員の仕事で古くなった資料を移す仕事を言い渡され、教室とは別棟の管理棟へとやって来たリョーマは目指す部屋を見つけられず、うんざりしたようなため息を付いていた。

どうやら道に迷ったらしい。

誰かに道を聞こうにも、人気の全くない廊下にそれは叶うわけもなく、とりあえずリョーマは今来た道を戻ろうとした。

と、背後の方で扉が開く音がし、振り返ると、部屋のひとつから何人かの男子生徒が出てくるのが見えた。

どことなく崩れた風体の彼らは薄ら笑いを浮かべつつこちらに歩いてきたが、リョーマの姿に気づくと驚いたような顔をする。

 「・・・・・」

顔を伏せ、そそくさと自分の脇を抜けていく彼らを不審の目で見送ったリョーマは少し迷った後、今しがた彼らの歩いてきた方向へ足を向ける。

彼らの出てきた部屋はすぐに察しがついた。

第一準備室と素っ気無い書かれ方をされた小さな古ぼけたドアがわずかに開いている。

これも少しためらった後、そのドアに手をかけそっと押す。

・・・ずいぶんと狭い部屋だった。物置としてしか使用されていないらしく、明かり取りの窓すらない。

その暗い部屋の床に打ち捨てられたように倒れている人の姿にリョーマは息を呑んだ。

うつぶせに倒れているその身体には学生服が投げ出されるようにかかっているが、その下肢は何もまとっていないことはむき出しになっている白い足と、傍らに投げ出された学生ズボンから伺える。

その無残な姿と、部屋いっぱいに立ち込める胸の悪くなるような匂いに、ここで何が行われたかを察するのは難しい事ではなかった。

しかし、リョーマが息を呑んだのはその惨状を見たからだけではなかった。

その華奢な背中と零れる薄い茶色の髪。

倒れているその姿は確かに見覚えのあるそれで、その衝撃に緩んだ手から資料が床へと落ちる。

その音に倒れている身体がびくり、と揺れ、のろのろとその顔が上がりこちらを向いた。

ぐしゃぐしゃに乱れた髪。焦点を結んでいない瞳。そしてところどころに欲望の残滓をこびり付かせたその顔に、二重の意味で最悪の予想が当たった事を悟ったリョーマは喉に絡んだような声を上げる。

「不二・・・先輩・・・」

 「!」

その声にリョーマの方を向きながらも空虚だった瞳にさっと光が差し、不二はその無表情だった顔を一変させた。

 「っ!」

喉の奥で小さく悲鳴を上げ、驚くほど敏捷な動きで身体を起こした不二は、見開けるだけ見開いたその瞳でリョーマを凝視しつつ、身体を後じらせる。

 「・・・先輩・・・」

 「来るな!」

そんな彼に思わずリョーマが一歩踏み出すと、悲鳴のような声でそれを制した不二は彼から顔を背け、身体を縮めると胸元までかき上げた学生服ごと強く自分の身体を抱きしめる。

その手は細かく震えて、肩が荒い息遣いに上下している。

凝った髪の隙間から見える唇はきつく噛み締められていて、その口元も震えていて。

・・・でも不二がそうしていたのはそれほど長い時間ではなかった。

不意にその身体から張り詰めていた力が抜け、かき上げた学生服と共に自分を抱いていた腕が腿の上にと落ちる。

「・・・とんだ所見られたね。」

息を大きく吐き出した後、不二は小さく笑ってそう言った。

その声はいつものものと変わらない。身体の震えも止まっていた。

 「でもね、別に初めてって訳じゃないんだ、こんな事。」

小さく笑みを浮かべながら、まるで何でもない事のように淡々と話す不二にリョーマは眉を寄せる。

「こんな事・・・ってあんた・・・」

「僕にとっては“こんな事”だよ。大した事じゃない。」

そんなリョーマをからかうかのように不二は笑いを含んだ声で続ける。

「もう慣れたしね。別に軽蔑してくれても構わな・・・」

「先輩!!」

・・・と、いきなり厳しく強い声でリョーマが自分の言葉を遮ったのに驚き、不二は今までうつむけていたその顔を上げる。

「・・・自分で自分を傷つけるような事言わない方がいい。」

それは静かな、でも強い口調だった。

年より遥かに大人びた物言いをするリョーマを不二はまじまじと見つめる。

まるで不思議なものを見るように彼を見つめていたその双眸がふっと揺らぎを見せ、何か言いたげにその唇が震える。

・・・が、思い直したようにその口を噤むと、再びその顔を伏せ、不二は小さく息を吐き出した。

「お願いがあるんだけど・・・」

少しの間の後、不二は小さな低い声でリョーマに切り出した。

 「何すか?」

「・・・そこら辺に僕のバッグがあると思うんだけど、そこからタオルとってくれない?」

リョーマは首を巡らし、落ちていた不二のバッグを見つけるとその中身を探り、タオルを取り出す。

 「・・・濡らしてくるから。」

汚らわしい残滓は乾いたタオルでは拭いきれないだろう。それに汚れているのは顔だけではない。その残酷な事実を言うのはさすがにはばかられ、リョーマは言葉少なくそう言うとタオルを手にしたまま部屋を出る。

 手近な水道でタオルを湿らせたリョーマは素早くその部屋にとって返すと驚かさないように静かにドアを開ける。

不二は壁にもたれて静かに目を閉じていた。

乱れた髪を頬に張り付かせたその横顔は青ざめている。身に着けているシャツは半ばボタンが弾け飛び、首筋から胸元にかけての肌はほとんどむき出しになっており、ところどころに残る擦り傷や掻き傷が、その白い肌を余計白く見せている。

まるで嵐に吹き散らされた花にも似たその姿は、不思議と気品と美しさを失ってはおらず、それが余計に痛々しく哀れでリョーマは眉を寄せる。

・・・と、リョーマの気配に気づいたのか不二がうっすらとその目を開ける。

 「ありがとう・・・」

自分の姿を認め、小さくそう言って、いつものあの見慣れた笑顔で笑う不二にリョーマはぎゅっと唇を噛み締める。

 「・・・笑わなくてもいいよ。」

ゆっくりと近づき、不二の前にしゃがみ込んでその肩に手をかけ、その頬にそっとタオルをあてがいながらリョーマが宥めるように言う。

 「オレ、あんたの気持ちわかるから。」

 「越前・・・?」

その言葉に目を見開く不二にリョーマは小さく笑いかけ、その顔をそっとタオルで丁寧に拭い始める。

その自然で優しい仕草に不二は思わず目を閉じる。

「その・・・できる?」

 「?」

・・・顔を拭っていたタオルが離れ、不意に言いにくそうにリョーマがそう切り出したのに、ゆっくりと目を開けた不二は、一瞬何を言われているかわからず小首を傾げる。

そんな不二にリョーマは困ったように苦笑する。

 「オレがやってもいいけど・・・見られたくないでしょ?」

 「!」

彼が手にしたタオルとその言葉に何を言われているのかわかった不二は、顔についたその後始末をこの後輩がしてくれたことに遅まきながら気づき、頬を薄く染める。

「大丈夫?」

その問いかけに頷くことで応えた不二にリョーマはその手にタオルを乗せて立ち上がる。

 「オレ、外に出てるから。」 

そう言い残してリョーマは足早にその部屋を出る。

 

 「・・・・・」

ドアにもたれ、廊下にべったりと座り込みながら、リョーマは宙をじっと見ていた。

 初めてではない、そう彼は言った。先ほど彼を見た時、表立った怪我もなかったところからすればさほど抵抗はしなかったのだろう。

明らかに合意の上ではない扱われ方をし、その行為に激しい嫌悪を持ちながらも、何気ない風を装う彼のその態度をリョーマはさして不思議に思わなかった。

不思議に思わないどころか、理解できた。

自分も経験したことのある苦い過去によって。

「畜生・・・っ!」

不意に後から後から煮えたぎるように憎悪の感情が湧き起こり、リョーマは激しく毒づいた。胸は潰れそうなほど高鳴り、手がぶるぶると震える。

それを落ち着かせるためにリョーマは何度も深呼吸を繰り返す。

あんな思いをあの人もしているなんて。

・・・そしてこんな近くにいながら守ってやれないなんて。

 

・・・守ってやれない・・・?

不意に自分の胸に現れたフレーズにリョーマは驚き、そして理解する。

自分がなぜあの人をずっと目で追っていたのかを。

どうしてこんな気持ちに捉われているのかを。

 

・・・どのくらいそうしていたのだろう。もたれていたドアが不意に動いたのにリョーマの思考は現在へと帰る。

 「・・・越前?」

部屋から出てきた不二が未だにそこにいたリョーマの姿を見て戸惑ったように声を上げる。

 「ねぇ、先輩、この棟にある資料室ってどこか知ってる?」

その不二の様子など意に介さないようにリョーマが彼に話しかける。

 「資料室?」

 「これ、置いて来なきゃならないんすけど、どこかわからなくて。」

後輩が手にしている幾冊かのファイルに目をやって、不二はああ、と頷く。

 「その部屋ならこの一階下だと思うよ。」

 「どこか教えてくれる?」

 「・・・いいけど。」

何事もなかったかのようにそう話しかけてくるリョーマに押されたかのように頷くと、彼は自分の傍らに肩を並べる。

探していた資料室はすぐに見つかった。

 「ここだから。」

 「ちょっと待ってて。」

立ち去ろうとする不二を呼び止めておいて部屋に入ると、あっという間に出て来たリョーマは不二のスポーツバックを取り上げた。

「先輩の家ってここからどのくらいあるの?」

当たり前のように自分のバックを肩にかけて後輩が話しかけてくるのに不二は目をしばたいた。

 「家って君・・・」

 「もう遅いし、送っていきますよ。」

そのリョーマの言葉に時計を見れば、確かにかなり遅い時刻を差している。

 「そんな・・・女の子じゃあるまいし、大丈夫だよ。」

自分の荷物を持ったまま歩く後輩に不二は苦笑し、彼から荷物を取り返そうとする。が、ひょいとその手をかいくぐったリョーマは、軽いため息をついて不二を振り返る。

 「オレが心配なんすよ。」

そう言って後輩がちらり、と自分の手元に視線を走らせたのに不二ははっとして、慌てて手にしていたタオルを手のひらの中に小さく握りこむ。

傷つき汚れた下肢をぬぐったそれをバックにしまうのは耐え難く、どこかでこっそり捨てるつもりで手にしていたそれを彼は目ざとく見ていたらしい。横目でちらりと見れば、隠し切れなかった紅がタオルの端ににじみ出ている。

「あんたを一人では帰せないよ。・・・危なっかしくて。」

 「危なっかしいって、君・・・」

自分の予想を裏打ちするような後輩のその言葉に急速に恥ずかしさと屈辱が込み上げてきて、不二は思わず唇を噛む。

「このくらい何て事ないよ。さっきも言ったでしょ?こんなの慣れてるって。」

 「ウソつかなくていいっすよ。」

そんな不二にリョーマは静かに反論する。

「何回されたって慣れる事じゃないでしょ?あんな事?」

 「君に何がわかるの?僕のあんな姿まで見ておいて!」

リョーマのその言葉にたまらずかっとなった不二が目を見開き、思わず声を荒げる。

 「同情なんてしなくていい。そんなものはされるほうがみじめだ!」

八つ当たりだ、そうわかっていながら激しく叩きつけてしまったその言葉に後輩はすっとその目を細める。

「・・・わかる・・・っていったら?」

 「・・・え?」

 「あんたの受けた屈辱、オレにもわかるって言ったら?」

波立つ自分の言葉とは裏腹に冷静にそう応えた声と、じっと自分を見返してくる瞳に不二ははっとする。 

 「越前、君・・・」

 「・・・・・」

そのまま無言できびすを返し、歩き出すリョーマ。

その背中にかけるべき言葉を失った不二は少し迷った後、その後ろに従った・・・

 

 

 「オレもあっちであんたと同じ目に合った事がある・・・」

・・・帰り道、しばらく続いた沈黙を破ったのはリョーマの方だった。

 「オレ、こういう性格だし、それに東洋人がテニスで勝ち進むのを面白くないと思う奴、結構いてね。それで・・・」

 「・・・・・」

 「結構ショックだったっすよ。・・・でも、それを表に出したら負けだと思った。だからあんたと同じように何でもないふりした・・・でも・・・」

そこでいったん言葉を切ったリョーマはその頬に自嘲の笑みを浮かべる。

 「・・・あんたこそオレの事、軽蔑するでしょうね?これ聞いたら・・・」 

 「?」

小首を傾げる不二にリョーマは苦笑交じりに、でも淡々と口を開く。

「何でもないって思い込もうとするのが辛くて、馬鹿みたいに思えて、だったら自分からそういう事してやろうって思って・・・実行してた。それこそ相手選ばずに。」

 「!」

その言葉は鋭く不二の胸を抉った。

あんな姿の自分を見た時の目がしごく冷静だったのも、自分にかける言葉が大人びて落ち着いていたのも、その経験がさせることだったのかと不二は思う。

誰かに頼ろうとしないならその傷は無理に押し込めるか、曝け出すかどちらかしかないだろう。

彼の性格からしてその傷を押し込める方を選べなかったのだろう。それは彼らしいだけに痛々しい気がして不二は眉をひそめる。

「わからない?オレ・・・」

「越前。」

無言のままじっとリョーマを見ていたので、彼は自分が彼の言った言葉の意味を理解していないと思ったらしい。その残酷な言葉の続きを話そうとするリョーマを不二は静かに制する。

「無理に傷を晒さなくていいよ・・・僕なんかのために。」

 「先輩・・・」

 「もう・・・いいから。」

優しく不二にそう窘められたリョーマは軽く目を見開いて彼を見つめる。

その自分の視線に淡く微笑む事で返す不二に痛みにも似た切なさを覚える。

「・・・あんたは・・・」

 「?」

 「あんたは、こういう事初めてじゃないって言ったね?・・・もしかして自分を汚いとか思ってる?」

 「・・・・・」

そんなリョーマの質問に不二は言葉を失う。それは事実を言い当てていたからだ。

  怖気を奮うほどその行為を嫌悪しながらも最後まで拒絶を貫かないのは、男としてのプライドを踏みにじる行為を無理矢理刻まれた自分の身体を嫌悪しているから。

・・・どのみち穢れた身体を労わる気になれなくて。

「忘れろ・・・って言っても無理かもしれないけれど、過去にこだわっても仕方ないじゃん。」

そんな不二を見透かしたかのようにリョーマは言う。

「済んでしまったことで身体を、心を傷つけるのは止めたほうがいいよ。」

「・・・どうして?」

 「?」

 「どうしてそこまで僕に言ってくれるの?」

自分の過去を、恥をさらけ出してまで自分を守ろうとしてくれる彼を不二は不思議そうに見つめる。

 「どうして・・・って。」

その質問に躊躇する後輩に不二はその目をふ・・・と細める。

「ありがとう・・・君は優しいね。」

そう言って自分に微笑みかける不二の瞳は相変わらず無表情のままで、リョーマは胸を突かれる思いがする。

 「先輩・・・オレ・・・」

「・・・もういいよ。僕の家、すぐそこだから。」

思わず出かけたその言葉を遮るように、脇をすり抜けて自分の先に立った不二がこちらに背を向けたまま口を開いた。

「どこ?」

「あそこだけど。」

不二の指差す方向を見ると、大きな屋根の家が見えている。

彼の言うとおりここからすぐのようだ。

「すっかり遅くなっちゃったね、ごめん。僕はもう大丈夫だから。」

自分の家を確かめるリョーマを横目で映し、ありがとう、と小さく言うと不二はリョーマの肩から自分の荷物を取ろうと腕を伸ばす。

・・・と、不意にその手を掴まれ、不二は戸惑ったようにリョーマを見た。

「越前・・・?」

目を逸らしたくなるほど真っすぐな視線がそこにあった。

「約束してくれない?」

「え?」

「この事で自分を追い詰めないって事。そして・・・ホントに何でもないって思えるまで無理しない事。」

自分の言葉に驚いたように目を見張る不二に歩を寄せたリョーマは彼の瞳をじっと覗き込む。

「越前・・・」

「約束してくれなきゃ、この腕、離せないよ。」

矢継ぎ早にそう言って、いつになく自分を真剣に見つめる後輩に不二の瞳が戸惑うように揺れる。

 「・・・わかったよ。」

・・・痛いほどに自分の腕を握り締めてくる彼とその視線に困ったように笑った不二は軽くうなずく。

「約束するよ。だから・・・」

 「・・・・・」

 「越前・・・?」

それでも自分の腕を掴んだままの彼に困ったようにその名前を呼ぶと、彼は軽いため息をついてようやく自分の腕を解放した。

「ありがとう・・・」

そんな彼に小さく笑うと、荷物を取り戻した不二はゆっくりと彼に背を向ける・・・

 

自分が背中を向けても、彼はその場で自分を見つめているのがわかった。

その視線を背中に感じながら、不二はある奇妙な感覚にとらわれる。

何故かその視線に覚えがある気がして・・・